まいにちくらくら

アニメの考察感想とか

Re:書く欲求の源泉

ブログを始めてもうすぐ2年になる。

 

あらためて、自分がなぜ「書く」のか、ということを考えてみると、ブログを始めた頃からの変遷が感じられた。

 

 

 

 

 

ブログを始めたときの「書く欲求」についてはこちら

 

 

 

思考をまとめる

 私が記事を書きはじめる理由で一番多いのは「自分の思考をまとめる」ことだ。

 

 自分の頭の中でめぐる考えを言語化して、記事として「残す」。

思い立ったものを記事として形にしておいて、あとで同じことを考えなくて良いようにしておく。思考を整理する。つまりはメモだ。

 それを記事として公開して、反応があればより良くしたり考えをあらためたりする。ありがたいことに指摘してくれるフォロワーさんもいて、大変助かっている。

 

 思考をまとめるのは、作品の考察、感想も同じだ。作品の考察や感想を記事としてまとめて、またあらためて作品に目を通すと、違う視点で見ることもできる。考察をあらためることも、自分の記事だからこそ容易にできる。仮に同意、共感を得られれば単純に嬉しい。

 

 

最近の記事に感じる「ブレ」

 最近自分の書く記事には当初の思想と「ブレ」を感じるものが出始めている。

自分の軸との「ブレ」

 私は、ことTCG関連においては、空想論が好きではない

 

 コラムは別として、私がTCGの実戦的な記事に求めるのは、筆者が「経験やそこから得た知見」を詰めこんだものを「効率良く」得られることだ。

環境デッキを例に出すと、デッキ構築には「デッキの勝ち筋や強みの把握」「仮組み」「対戦を通した調整」「サイチェン枠の選定」等々、多くの過程が必要だ。

基本的にこれらは、「過程」をすっ飛ばして「結果」だけを得てもなんら問題はなく、むしろ効率的だ。

 対戦を通した調整のみ、最低限そのデッキでプレイしておけば、なんとかなるとも言える。

もちろん、最初から最後までできればそれに越したことはないが、これだけ多くの娯楽が溢れている現代。できるだけ時短したいというのが本心だ

特に「遊戯王OCG」は10000種以上のカードがあるゲーム。私には自分で全てを考える余裕はない。そんなの疲れるしそんな余裕があれば、スマブラのトレモを擦ったりアニメを見る。デッキ構築嫌い。

 

にもかかわらず、

yamachi-9rakura.hatenablog.com

 

自分の記事に「経験やそこから得た知見」は含まれているのか?

自分が他の記事に求めることを、自分の書く記事で体現できていない

 

 

 

 界隈との「ブレ」

  私はカジュアル環境でTCGをプレイすることが多い。公式イベントには積極的に出るが、基本的にはお互いに自分のやりたい動きを通し、殴りあうカジュアル戦を好む。

 競技的にやりたいと思う時期もあるが、特に社会に出てからはそれが難しいと感じることが多い。やるなら徹底的にやりたいからだ。それでも一応、環境の動向は追って、1〜2個は環境戦ができるデッキは所有するようにしている。

 今は良環境と言われるが、どのデッキにも可能性がある分、メタを絞れなくてデッキタイプの把握にも時間がかかる。アドリブで何かするのが苦手な私には到底無理だ。

 

 ただどちらにしても「身内」でやることがほとんどだ。

 

 遊戯王はガチ・カジュアルに二分化されることが多いが、私は大きく分けても4つ、もっと細分化すれば6つに分けられると考えている(これについてはいずれ、何かしらの企画記事で書きたい)。ただここでは、ガチとカジュアル、という大きなくくりで考える。

 ことカジュアル環境においては「オリジナリティ」が求められがちだ。

前例のない、自分だけのデッキを作りたい、そういう欲求に溢れた人が多い。それはもちろん尊重するし、むしろ敬意を抱く。

 

 なぜなら、私にはできないからだ。

 

 「オリジナリティ」のあるデッキが組めない。仮に組んだとしても、その「弱さ」に目がいってしまう。つまり、私には「デッキ構築力がない」のだ。

(この辺りについてもいずれ別記事で書きたい)


 キャスでデッキ構築云々、なんてものをよく見るが、私にはあれができない。自分の中に「構築論」がなく、採用理由は「好み」や「試行を繰り返した結果」がほとんどだ。何かを勧められたらどれも強く感じてしまうし、採用しないと「せっかく自分のために時間を割いてくれたのに」と申し訳なく感じてしまう。

 そして対戦ゲームであるからこそ、ある程度「勝てる」デッキでないと私は「納得」できない。私はデュエルを通してコミュニケーション、やりとりをしたいのだ。やりたいコンボを通せれば良いわけでもなければ、何もできず負けるのも面白くない。

「納得」できる「対戦」を第一に考えている。私にとって「客観的な面白さ」や「独自性」を持った構築は二の次なのだ。

 

 私には、さまざまな「記事」、数ある「対戦」から「インプット」して、それを「自分のデッキ」に「アウトプット」することしかできない。つまり、他の人に自分が求めることと同じような経験を与える記事を書けない。

 

yamachi-9rakura.hatenablog.com

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ただ、「自分のデッキにアウトプットした結果」を「記事」にすることも多い。これには満足している。

 

 

 

経験をもとにした記事は「面白くない」

 

日記じゃん……。

 

レポート記事は書くのは割と楽しく、やったことを書くだけなので楽だ。なので書く側は全然良いのだが、質は担保されない。読者と筆者に乖離がある。

 

yamachi-9rakura.hatenablog.com

この記事は「ラッシュデュエルをもっと盛り上げたい」という思いがかなり先行しているが、そういう思いがあるなら「優勝デッキの紹介」と「大会のレポート記事」は分けるべきだった。

 

 ただ、前述した通り「経験をもとにした記事」を私は好む。つまり、自分の経験を面白おかしく記事へと昇華できない、私の力量に問題があるのだ

  これは欲求とは別の話になってくる。他人の思考を知ることができるコラムや考察記事を読むのはすきだが、自分のものが面白くなっているのかはわからない。

 

すきなものを、すきと言いたい

 あらためて振り返って「書きたいこと」はなんだったのか。なぜ「書く」のかを捉えると、やはり「すきなものをすき」だと言いたいのだろうと感じる。

 

それが如実に現れているのが、昨年末に上げた「遊戯王ARC-V」の記事。

yamachi-9rakura.hatenablog.com

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自画自賛になるが、本当によくかけていると思う。構想に一年、それ以前からずっと書きたかったものだ。
ためにためて「遊戯王ARC-V」に関して、ずっと思ってきたこと、書きたいことを一気に放出した「自分にしか書けない記事」。

 

ただ今感じるのは、おそらく私には、もうこれらの記事を超える記事を書くことができないのでは、ということ。

 

yamachi-9rakura.hatenablog.com

最近「遊戯王SEVENS」の記事を書いた。反響も思ったより良くて嬉しい反面、読み返すと何かが引っかかる。足りない。

 

熱量」が足りない。

 

タメが必要なのか?

 「遊戯王SEVENS」は本当に素晴らしいアニメで、単発回の脚本はどんどん脂が乗っていくし、本来の意味での「伏線回収」が多くて見事だ。少し不穏な描写もあって先が気になる。子供向けだが子供騙しではない。

 

 ただ「消費」してしまっている感がある。

口当たりが良いから、そのまま飲み込んでしまっているのだ。「遊戯王ARC-V」は両手をあげて喜べる出来ではなかったから、喉につっかえたり、胃で消費しきれなかった。思えばそれを吐き出したのだから、気持ち良いのは当然だ。その「タメ」が長かったからこそ、「文量」に、「熱量」に繋がっている。

 

eveydayanime-9rakura.hatenablog.com

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 シンエヴァの考察記事にもそれが現れている。自分の半生に渡って追ってきた作品だから、記事として吐き出す前の「タメ」は十分だっただろう。読み返してみるとシンエヴァの内容以前に旧劇の内容に触れていることが多く、旧劇に対して思っていたことを吐き出す場として上手く作用したのだと言える。

 

eveydayanime-9rakura.hatenablog.com

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京アニに関する記事や「プリティーシリーズ」に関する記事も同様のことが言える。

 

逆説的に考えれば、「熱量」を文章に乗せるには「タメ」が必要なのだろう。

 

変わらないこと

eveydayanime-9rakura.hatenablog.com

 

 上記記事でも書いた「記事を書くうえで意識すること」は変わっていない。 開封記事のような内容のない記事でも「自分の意見を示すこと」は意識している。

 

 そして「書くことそのものがすきであるということも変わっていない。だから、これらはいまだに書く欲求の源泉に溜まっている。

 

 

今考える「書く欲求の源泉」

 私のブログはそもそも、SNSからの流入が2割に満たないため、SNS上のいいねやRT数はそこまで気にならない。あったらあるだけ嬉しいが、いいねした人が記事を読んでいるかというとそうでもないわけで、気にしてストレスになるより気にしない方が理にかなっている。記事ごとのアクセス数も見方を知らないため気にしていない。
 であるならば、今は反応を得られることが欲求にはなっていないのだろう。

 

 であれば収益か。確かに更新頻度の観点で言えばある程度意識はする。ただ、本業の収入で満足しているし、そもそも雀の涙程度なのでなくても気にはならない。であるなら、収入を得たいから書く、ということは今はない。

 

 振り返って整理してみると「書いていて楽しいかどうか」。それが書く欲求になっていると言える。

 

 ブロガーイベントに参加したことで、何かしらお題に沿って書いたり、何かに追われて書くことは「苦痛」だと知った。私には合わない。

 

 私の考え、存在を残すために記事を書くならば、「熱量」を込めるべきだ。「熱量」があれば、拙くとも伝わる。説得の構成要素「エトス(信頼)」「パトス(情熱)」「ロゴス(論理)」のうち、私には圧倒的に「エトス」が足りていないのだから、「パトス」で補うしかないのだ。書きたい記事を通すのであれば尚更だ。

 

遊戯王」は趣味の一つにすぎないが、「記事を書くこと」は人生の一部になりつつある。書いた記事は「記録」として残っていく。

 過去の自分の「熱量」に当てられて、それが今の自分の糧になる。そして未来へと繋がるかもしれない。

 


人として軸がぶれている