日本人といえば、何かにつけて謙遜しがちだ。謙遜とは美徳なのだろうか?
前回
yamachi-9rakura.hatenablog.com
当たり前のことしか書いてない気もしますけど、本番は後編ですかね?(まだ書いてないから知らん)
前々回の記事では、尊敬について語った。
eveydayanime-9rakura.hatenablog.com
今回は、謙遜について考えていく。
謙遜とは、「自分の能力・価値を低く評価すること。控えめに振る舞うこと」を意味する。
何かに対して褒められたとき、何も考えず謙遜する……日本人として、これは一種の慣例ともいうべきものだ。
単純に自分のした仕事、功績に対してや、それを可能にした能力、あるいは容姿、仕草にいたるまで、他人を褒める要素は多種多様だ。
謙遜は卑下とは違い、あくまで「自分の能力や功績におごらず、控えめに振る舞う意」を表すらしい。一見、何も悪いことではないように思える。
実際、褒められると一種の照れを感じる。それに関して、照れ隠しとして謙遜をする、というのがよくある流れだろう。
謙遜をせず、自分の能力におごったような態度をとると、それはあまりよく思われない。俗にいう「イキり」とみなされてしまうかもしれない。
だが、謙遜をするということは、何も生み出さないと私は考えている。
例えば、以下のようなパターン。AとBの2人の会話である。
A:「Bさんって〜〜得意ですよね〜。すごいなぁ」
B:「いやいや……そんなことないですよ。Cさんの足元にも及ばないですし……」
日常会話でありそうな内容だが、私が問題視するのはある一点だ。
会話が続かないのである。
謙遜というのは、会話を終わらせる。
極論かもしれないが、相手の話題出しに対して、Noという否定の意を与え、それ以上の介入をするなと警告をするようにも取れる。
相手が謙遜をしたことによって、「これ以上触れて欲しくないのかな」と想像を働かせてしまい、それ以上その話題に突っ込めなくなってしまうこともあるだろう。
謙遜に対して、マイナスイメージを持っている人の意見としてよくあるのが「自分の能力は誇るべきだ」とか「褒めてくれた相手に失礼だ」とか、そういう意識や作法の面についてだ。
だが、私は会話というコミュニケーションの場での謙遜はマイナスの方が大きいと考えている。
他人を褒めるというのは(それが本心にしろそうでないにしろ)相手の特定の部分に対して、他人より秀でていると感じられたと伝えることだ。
相手の秀でている部分には、何をしてそうなったのか、なぜそうなろうとしたのかなど、相手の人間像を深掘りする要因がたくさんある。
褒められるほどの長所を形成できたなら、そこに至るために相応の努力をしただろう。その過程に敬意を示して”褒める”のだ。
褒められたときは、謙遜するのではなく、しっかりそれを受け止め感謝するとともに、次に繋がる言葉を発したい。
アトガキ
昨日はサボりました……。
今回の記事なんですが、かなり難産して、なかなか自分の考えを言語化できなかったです。というか読み返してもまとまりが悪いような……。
謙遜に関して、一番わかりやすいところは、容姿だと思うんですけど、どうでしょう?
容姿の良さってかなり努力が出るところだと思ってます。
髪型から肌の質、体型まで努力である程度は整えられる気がします。(顔のよさ、身長だけはノーコメントで…)
容姿を褒める側からしても、容姿を褒めるっていうのはかなりハードルの高いことですし、素直に受け止めてくれた方が印象が良かったりしますね。
さて、次回のテーマは「否定」です。